2023年、あけましておめでとうございます
新年をどのような気持ちで迎えられたでしょうか
新年といえば「初夢」
何か夢を見ましたか?
私は、ちょっと意味深な夢を見たので、それをシェアしたいなと思います
夢の内容
ひとつの絵画が飾られていて、それを観賞している人たちを私は見ていました
すると、「あの絵は、そこに飾られていることが使命だ」という声がします
どういうこと?
保育園の子どもが給食を運ぶ時、それを落としてしまい、散らばる食事の場面になり
「あの食べ物は、ここで落とされることが使命だ」と言うんです
使命ですか…?
「食べられるために、ここまで来たのではなく、ここで落とされて、食べられないで終わるため、あの食品はここにある」
むずい・・・・
「よく言うではないか?お野菜を育てた時、すぐに出来なかったよね、お水あげたり、雑草抜いたり、お日様にあてたりお世話したよね。そうやって時間と世話をしてもらって、大きくなって、収穫して、それを料理してもらったよね。みんなの前に来るまでに沢山の人の手がかかっているんだよ。大切に食べようねって」
あ、はい
「そのことを、今ここにいる子ども達が考えるために、この食事は、ここで落とされて食べられないことが使命ということだ」
それは、なんとなく理解できるかもです
「そして、そのことを子どもたちに伝えている、それも使命だ」
え?使命なの?
「今、この瞬間、ここにあるもの全てが使命を生きている」
はいー?????
「これを伝えること」
伝えるってー???
というところで目が覚めたわけです
伝えるって言われても、自分が理解できてないぞ…。
というわけで、ずっとこれをどうまとめようかと考えていたのですが
考えてもまとまらないので、とりあえず今、私が解釈できる範疇で書くことにします
夢の解釈
つまり一言で言うと「この地球上にあるもの全てが使命を生きている」ということだと思うのですが
例えば、使命って、自分の人生の中で「猛烈に情熱を傾けられるもの」とか「自分が出来ることで誰かのためになるもの」とかいうイメージあるじゃないですか?すごく特別なものの感じがしますよね
けど、「今、この瞬間、ここにあるもの全てが使命を生きている」ということは
そういう特別なことばかりでもなく、毎日の一瞬一瞬の私が「今ここでパソコンに向かって、この文章を書いている」というこの作業も、使命なんだということです
「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」
聖書
胎内記憶を持つ子どもたちは「生まれてくる前に学校みたいなところで、自分が地球でどんなことをするのか計画図を作ってくる」と話しています。ということは、この聖書でいう「賜物」は、人生の計画図を進める上で必要なものであり、これを生かして人生の計画を遂行していくことが「使命」である、と言えるかなと思う訳です
計画図通りにいっているかどうか分からないから、この「計画図」を知りたいと、私たちは使命や天命を求めているんだよ!
と言う声が聞こえてきそうですが、もともと自分で決めてきているならば、本来、自分でもそれを知っている、分かっているはず、という過程も成り立ちますよね。そうであるなら、無意識にでも、その方向へ向かっているはずなんですよね。
例えばですね、この夢の話をシェアするにしても、私はもともと、こういう文章を書くのも、色んなことを考えたりするのも好きなので、こういうこと書いているのも苦じゃないです。
でも、苦手な人もいますよね。話す方がいいって人もいます。そう人は文章ではなく、動画でシェアするのかもしれませんし、お友達に電話をかけて、こんな夢を見たよ!ってすぐにシェアする人もいるかもしれません。
そういうのって無意識にしてません?
おまけに、それが誰にどんな風に伝わるのか、どんな風に影響を与えたり、役立っていくのかなんて、そんなことも考えないほどに普通にやってますよね?
そんな風に、私たちは生きている上で、日々日常で何気なくしていること、交わしている会話がありますが、それら全てが自分と神様と決めてきた人生設計図の中にある。それが「生きていること、私たちの全てが使命の中にある」ということなんじゃないかなと思う訳です
自分の経験にそれを当てはめてみる
私が幼稚園の先生になりたいと思ったのは、自分が幼稚園の時に困った出来事があり、それで拗ねて別の教室に隠れてしまったことがあったのですが、その時、発見してくれた先生は、怒らずに何があったのか聞いてくれて、それを解決してくれました。
その先生の姿を見て、私は幼稚園の先生になろう!と思った訳です。
そこから15年後、私は幼稚園の先生になり、それから22年の間、子どもたちと関わる仕事をしてきました。そして今、その子どもたちのためにより良い人的環境を作ってあげたいと保育士さん向けの講座をしたりしています。
あの日の私の決心を、それからの歩みを、担任だったその先生は知りません。
よもや自分のその姿が、目の前の子の一生の歩みを印象付けるものとなることなんて想像もしなかったことでしょう。そんな風に知らないうちに使命を果たしているということです。
自分の心の反応に注意を向ける
夢の中で、もう一つ言っていたのは「起こっている物事に自分がどう思ったのか、どう感じたのか、どう対処したのか、ということに注意を払うこと」
ということでした
先ほどの保育園の食事の場面を例に挙げると「食事を大切にしようね」という話を聞いたとしても、全くそれに関心ない子もいれば、ある子には「食事って、そんな風に沢山の人が関わってくれているんだ」と印象付けられ、食品ロス問題に取り組む子もいるかもしれません。
食事を大切に食べるマナーに関することに関心を持つ子もいるかもしれません。食事や食物を作ることに興味を持つ子もいるかもしれません。
起こっていることは一緒なのに、そこで感じることは皆、違うのです
だからこそ、そこで自分の中で、どんな気持ちが湧き起こったのか?ということを意識していくと
そうすると、多分ある傾向が見られると思うんですよね
それが、あなたが進む道、あなたが決めてきた人生設計図に向かうヒントになっていくのではないでしょうか
聖書では、マリアがイエスを受胎すると告げられた時も、イエスが成長して神殿で学者たちと論議していた時も、マリアは「これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」とあります
この出来事は何なのだろう?このことを通じて自分がすべきことは何だろう?と思いめぐらせていた訳です。外に追い求めたのではなく、心に留めて、日々の祈りの中で神様が自分に何を示しているのかを思い巡らせていたのです
私は、使命や天命を探して、様々な学びやセミナーにもいきました。高額なお金と時間を費やしてきました。
けれどもそれは、まだまだ自分には使命が見つかっていない。そんな風に情熱を注げるようなものを見出していないと、焦る気持ちばかりが高まり、さらに様々な学びを追い求めていることになりました。
学びが悪い訳ではありません。それによって、私も沢山の気づきや、分からなかったことが分かるようになりました。けれども、内側に目を向けて、自分の心がどんな風に反応しているか?ということを意識しておくことがとても大事なのです。
という、こういうことをお金と時間を費やして学ぶということもまた、私の使命の一つなのでしょうね
じゃないとお話しできませんから(笑)
自分を知ること。自分の内側の反応に気づくこと。ぜひその時間を毎日少しずつでもいいので取ってみてくださいね